江戸の落穂  ~迷子札の話~

夢野晴吉先生のコラム第十三弾
江戸の落穂 
 ~迷子札の話~をお届けいたします。
 
 
江戸の落穂 
 ~迷子札の話~
 
 木造建築が全てだった江戸時代、
最大の恐怖は火事でした。
 
 そのため、江戸に消防組織が出来た事は前にもお話しましたが、
その結成によって、思わぬ所で非常に助かったと言うか、
便利になった事がありました。
 
 それが、“ 迷子探し ”です。
 
 それについて少しお話すると、
消防組の持ち場が定まり、纏の形も決まると、
纏を見れば大体の持ち場とする地域が分ったので、
これが迷子探しに役立ったのです。
 
 昔から、「泣く子と地頭(じとう)には勝てぬ」という諺がありますが、
泣いている子供と地元を治める役人に無理を言っても仕方がないように、
迷子の子供は混乱して、大声で泣きながら歩き回って、
手がつけられないのです。
 
 親が持たせていたお守り袋や迷子札も落として失くしてしまい、
泣きじゃくる子供から話を聞く事が一番の難儀でした。
 
 そこで、町役人か、どこかの知恵者が考えついたのが、
こどもが自分の町内の纏を覚えてさえいれば、
その纏から住んでいる地域が分ると言うものでした。
 
 四十八組の纏のミニチュアを置いて、
「坊やの所の纏はどれだい?」と聞くと子供はそれを指差します。
 
 これはかなり確率が高かったようで、
番所には同じものが備えられていました。
 
 絵草紙(浮世絵)も子供用の纏絵を作り、
親達も町内の纏の絵の付いた絵草紙やおもちゃを買い与えて覚えさせました。
 
 江戸中の町内に消防組の頭が置かれた事で、
町内の人々と頭の間に細かい連絡がつくようになったので、
それまで、“ 神隠し ”として処理されていた迷子探しが、
合理的に出来るようになったのです。
 
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