稽古場の道場荒し

夢野晴吉先生のコラム第二十弾
江戸の落穂 
~稽古場の道場荒し~をお届けいたします
 
江戸の落穂
~稽古場の道場荒し~
 
 明治から大正初期の頃、呼び名が東京に変わった江戸では、
長唄、清元、常磐津などの邦楽は嫁入り道具の一つと言う考えがありました。
 
 女学校の数も少なく、
女は学問せずとも、大店に行儀見習いにいけば良いというような
現代では考えられない世間でした。
 
 実際、大店のお内儀さんが、
嫁に行って困るといけないからと邦楽を教える家も有りました。
 
 私のお祖母さんも金箔を扱う堅気の商家に行儀見習いに行き、
そこのお内儀さんに常磐津を習ったそうです。
 
 それだけに、邦楽の稽古場も多く、殆どの町内には、
小さな稽古場も入れると二、三軒は必ず有りました。
 
 このように稽古場が多くなりますと、
剣道や柔道の道場荒しのような事をして、
若衆(わかいし・・・若い者)は喜んでいたようです。
 
 町内に新しい稽古場ができると、
早速、四、五人で祝儀を包んで、お師匠さんのところに行き、
「稽って(さらって)下さい」と言って、殆ど唄われていない唄を出すのだそうです。
 
 私が聞いたものでは、例えば清元の「神田祭り」と言うと、
「ひととせに 今日ぞ祭りの当り年」と出だすのですが、
殆ど唄われる事のない前段が有ります。
 
 それを頼むと、お師匠さんは自分も習っていないものなので、
「私、それ教わってないんです」 と言わざるを得ません。
 
この一言を言わせたくて、わざわざ祝儀まで包んでいくと言うのも、
茶目っ気充分な江戸っ子らしいお話です。