「邦楽について」(その2)

青木先生の「師匠のたまにちょいちょいひとり言」の8回目をアップさせて頂きます。
今回は「邦楽について」(その2) です。
 
 
「邦楽について」(その2)
 
長唄は娘さんの芸として、義太夫は旦那芸と云われ、
清元、常磐津、新内は職人芸といわれていました。
 
そして、職業によって習うものが決まっていました。
 
例えば、お祭りや棟上式(むねあげ)などに使う「木やり」は癇声(かんごえ)といって、
高い調子の声を使うので、同様の癇声を多く使う清元を、鳶職(火消し)の方が多く習っており、
又、左官(さかん)の職人は新内が殆どでした。
 
昔は、土用というものに重きを置いてまして、春夏秋冬に十八日づつありました。
この土用には土を動かしたり使ったりしてはならないと云われていました。
 
このため、左官屋さんは四季で一季十八日、年に七十二日は土用のため仕事ができず、
加えて寒の内には塗った壁の水分が凍って、乾くとくずれてしまうので仕事にならず、
他の職人さんより非常に働く日数が少ないのです。
 
そのため、新内だけの特徴である修業のため町々を「新内流し」をするのを利用して、
休日の多い間の仕事の手間賃の足しにしたとかですから、
昔は芸人はだしの上手な左官屋さんが多くいたと申します。
 
また、以前は宴会などで三味線の前に座ったとき、
恥をかくからと、職人、商家の人でも番頭さんになると、三味線ものを習ったものです。
 
一寸考えられないのは、行儀見習いに行った奉公先で、
そこのお内儀さんから三味線を習うことさえ、当然なようで、
三味線を弾くことは、一つの嫁入り道具になっていたときもあるようですから、
今から考えますと時代の違いを感じております。
 
これから先は長くなりますので、又次回・・・。