竹馬で辞めさせられた火消し

夢野晴吉先生のコラム第二十一弾  
江戸の落穂 
 ~竹馬で辞めさせられた火消し~をお届けいたします
 
江戸の落穂
~竹馬で辞めさせられた火消し~
 
 師走が近づきますと、江戸の人々は口々に、
”いよいよ押しつまってきたね”と言い合いました。
 
 この時期になると、前にも書きましたが、
江戸の町々に何千、何万という泥の樽が設けられ、
冬場の火災に備えます。
 
 更に火災の一番多い季節なので、
火消しは各組とも詰め所を設けて、火事に備えました。
 
 いろは番附けの火消しであれば、
詰め所から火事場に駆けつけるのが便利な事は、
充分分かっているのですが、火消しは職業で無い爲、
一年中、詰め所に詰めている訳にもいかず、
火事の多い冬場だけ交代で泊り込んでいました。
 
 火事になると詰め所にいる者はそのまま火事場へ、
詰め所に入っていない火消しは、
家から直接火事場に駆けつけるのです。
 
 このような火消しの詰め所で、
本当にあった吹き出しそうな話があります。
 
 大正時代の話ですが、
当時の火消しは江戸時代からの仕来りを重んじ、
詰め所に入る服装は火事装束に草鞋(わらじ)ばきとされておりました。
 
 ある晩、丁度雪が降っていましたので、
草鞋を濡らすと足が冷たくなるから、詰め所で履きかえようと、
草鞋を手に持ち、代わりにゴム長靴を履いて行った若衆(わかいし)がおりました。
 
 ところが、
詰め所にいた赤筋(あかすじ・・・お偉方)に見つかり大目玉。
 
「おい、何でぃ、そのなりは。火事装束だ。
ゴム長なんか履きかえてこい。」と叱りつけられ、
「長靴を履きかえて来ます」と中っ腹(ちゅうっぱら・・・ふてくされる)で言って帰った若衆が、今度はゴム長を脱いで、竹馬に乗って帰ってきました。
 
 これが赤筋を馬鹿にしたとして問題になり、
遂に『半纏を上げられた(=辞めさせられた)』のです。
 
 西洋のゴム長がいけないなら、
草鞋履きで竹馬なら文句は無いだろうという考えは面白いのですが、
そんな冗談が通る世界では有りません。
 
 神田淡路町から三崎町までの約2~3キロを、
急ごしらえの竹馬に乗ってやって来られたのですから、
赤筋は相当馬鹿にされたと思ったのでしょう。