江戸の落穂~桃中軒 雲右衛門をご存じですか?


    夢野晴吉先生のコラム第四十三弾  
  江戸の落穂 
~桃中軒 雲右衛門をご存じですか?~


  浅草公会堂で行われる浪曲大会のチラシを頂きました。

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  浪曲は最初『でろれんざえもん』と呼ばれていました。それは唄の調子を合わせる為に口三味線で ”でろれん でろれん”と言ったからです。

  残念ながら、江戸ではさほど人気のあった芸とは言えませんでしたが、そういう時代に桃中軒 雲右衛門という人が彗星のごとく現れたのです。

  雲右衛門は東京で師匠の奥さんと駆落ちして大阪に向かいました。その途中、駅弁を買った駅弁屋の屋号が『桃中軒』だったので、今までの名前を使うわけにはいかない彼は、桃中軒 雲右衛門と自ら名付けました。

  大阪で桃中軒 雲右衛門の名で「忠臣蔵」をやって人気を博し、その人気に乗って東京へ戻って来ましたが、東京の寄席の仕来り(しきたり)として、師匠の家を飛び出した者には寄席で興行させないというものでした。

  その為、東京の寄席で興行の打てない雲右衛門は芝居小屋を借りて興行し、大当たりしたのです。

  芝居小屋は寄席と違って大きいので、現在行われているような舞台の飾り付けをするようになったのは、雲右衛門からです。

  雲右衛門の興行は主に忠臣蔵でしたので、討ち入り前に大石内蔵助浅野内匠頭正室に別れを告げる”南部坂 雪の別れ”などに人々は熱狂したのです。

 ご興味のある方は、ぜひお出かけになってみてはいかがでしょう?