江戸の落穂~泥の樽~

夢野晴吉先生のコラム第十九弾
江戸の落穂 
泥の樽~をお届けいたします
 
 
  江戸の落穂~泥の樽~
 
 今から考えると不思議な事ですが、師走が近くなると、
江戸中の町に泥の入った樽(たる)が置かれていたのを、ご存知ですか?
 この泥の樽は、火事と深い係わりが有りました。
 花のお江戸で一番の困り事と言えば、冬場に火災がたびたび起こる事。
この対策として、土蔵造りの商家が多く造られました。
 
 土蔵造りの商家では、もし周りで火災が発生した時、
土蔵の出入り口の扉や窓を壁土(かべつち)で塗り潰し、
僅かな隙間からも火が入らぬようにしなくては、蔵に火が入ってしまいます。
 ですから、火災が発生すると周りの家は、
大急ぎで柔らかくしてある壁土を泥の樽から取り出して、
素人仕事で隙間を埋めたのです。
 その為に土蔵や蔵造りの家の隅には、必ず泥樽が置かれていたものです。
 現在では殆ど見る事は出来ませんが、
落語『 火事息子 』にその有様が残っています。
 
 当時は出入りの左官(江戸では「しゃかん」と言いました)が、
常に泥が柔らかくなっているように、土をこねに来たものです。
 これは左官の職人にとって、冬場のちょっとした収入でもありました。
 江戸時代は、土用に土をいじる事はタブーとされていましたので、
四季を通じて土用の間、左官は休みに等しかったのです。
 
 左官には新内をやる人が多いと言われていましたが、
これも新内なら新内流しでもして稼げるからだ、と言う口の悪い人もおりました。
 確かに、寒いうちは壁が凍ってしまって、
とても仕事にはならなかったと言う事もありました。